ともきんぐだむ

主にゲームやアニメなどの話題について、その時、考えたことを書きます。

悲劇の回避という点から見るドラゴンクエストVIIとXI

ドラゴンクエストVII

 

ドラクエの中でも有数のボリュームを誇るこのゲーム。

 

このゲームの構造は、他のRPGと比べてもいささか変わっています。

ドラゴンクエストシリーズを始めとして、多くのRPG作品では、敵は現在進行系での侵略者であることが多いです。そのため、主人公は正体不明の敵の暗躍を暴き、立ち向かっていくというのが、RPGのストーリーの一つのテンプレートになっています。

これは、現在という固定された時間軸の中で、ゲームの目的であるラスボスを倒すためにシナリオを設計するための必然でもあります。

しかし、それはプレイヤーの意志で悲劇を回避することはできないということ。ラスボスの陰謀が進行しないことには、ラスボスがラスボスとして君臨することができないからです。

(あらゆる手段を用いて危機を回避してもよい……というRPGもそれはそれで面白そうですが)

ドラゴンクエストで言えば、パパスの死はその気になればいくらでも回避できそうなイベントなのに、回避することはできません。

RPGとはプレイヤーの意思で自由に行動できるゲームのはずなのに、ストーリーの充実化はストーリーに対する不自由さを加速させました。

 

しかし、ゲームである以上、一定以上プレイヤーの主体性を反映する必要があります。

これに対する回答はいくつかあります。

一つは、探索やストーリーはプレイの主目的ではなく、あくまでプレイの報酬とすることです。

独創的な育成システムや、やりこみがいのある戦闘システム。あるいは豊富なやりこみ要素など、様々なやりがいを設定します。

それらの要素にゲームとしての面白さの主眼を移すことで、ストーリーはゲームの目的ではなく、戦闘や育成の結果得られる報酬として機能するようになりました。

ファイナルファンタジーシリーズが毎度オリジナリティに溢れた育成システムを採用し、テイルズオブシリーズがやりこみ甲斐のある戦闘システムを採用するのはこういった理由です。

この結果、RPGはそのフォーマットを維持しつつも、多様なストーリー表現が可能になりました。

プレイヤーの「攻略したい」という興味関心が育成や戦闘の方向に逸らされることにより、上記の探索を楽しむというRPGの面白さに拘る必要がなくなったためです。

なので、主人公は未熟でいいし、それが悲劇に繋がってもいい。

このように、独自性に溢れた戦闘システムと、一本道のマップやシナリオを基調としたJRPGと呼ばれる文化は、このあたりの事情から発生したものと言えるのではないでしょうか。

一方、プレイヤーの主体性をより直接的に重視する方法もあります。

それが、近年オープンワールドと呼ばれ広く普及したRPG様式です。

こちらは、広い世界を探索することを面白さの主眼においています。

この中では、ストーリー進行は数あるクエストの中の一つとして定義されており、プレイヤーが主体的にメインクエストを選択しない限り、ストーリーは進行しません。ストーリーを進めずに延々と寄り道をしていても問題がないのです。

すなわち、メインストーリーを探索要素の一つに過ぎない消化物として扱うことにしました。

こちらも同じく、ストーリーをご褒美の一つとして規定し、報酬として与えることにより、ストーリーによる主体性を問わない形式になっています。

 

 

これらはいずれもストーリーを報酬として再定義することにより、一本道のシナリオに説得力をもたせました。

では、シナリオ面でRPGらしさを追求することはできないのか。

その一つの解答が「決められた未来を回避する」物語構造です。

定められた悲劇をハッピーエンドに持っていくというのであらば、プレイヤーの主体性は保たれるのではないか。

クロノ・トリガーで、堀井雄二は既にこの構造への反逆を試みていました。

待ち受ける絶望的な未来を回避するため、プレイヤーは自分の好きなタイミングでラスボスであるラヴォスを倒しに行きます。

悲劇を回避するというシナリオを作るためには、時間を移動し、「悲劇の先」を見通せるような世界設計になっている必要があります。

クロノ・トリガーはそんなシナリオ構造への挑戦から生まれた作品ではないでしょうか。

見方によっては、夢というギミックを用いて時間軸の概念をぶれさせたドラゴンクエストVIもその系譜でしょう。

そんなチャレンジの集大成となった作品がドラゴンクエストVIIです。

この作品の舞台は「既に滅ぼされた世界」です。

魔王オルゴ・デミーラにより、エデンと呼ばれた島を除き、全ての大陸が滅ぼされた世界。

これがこの作品における「悲劇の結果」となります。

 

主人公たちは当初この構造を知りません。

「新しい世界へ行って新しい世界を復活させる」という純粋な冒険心とともに、数々の地方を開放していきます。

このあたりの導入は実に自然で、ゲームの流れを重さを感じることなく体得することができます。

一方で、シナリオは陰鬱なものが多い。

多くの土地で既に魔王の手先は土地に何らかの爪痕を残しています。プレイヤーたちが干渉できるのは、あくまで「滅びゆくその瞬間」のみなのです。

一時点にしか干渉できないという制約が、物語に影を落とします。

待ち受けるは絶望のみという状況において、非力な少年たちの介入が、一筋の光明をもたらすという構造は、どうしてもきれいな解決ばかりにはならない。

最たる例が1つ目にして有数の鬱エピソード、ウッドパルナでしょう。

プレイヤーはパルナの死というそもそもの悲劇を回避することはできません。

ウッドパルナ地方が滅びの道を歩む決定打となったのは、パルナの死そのものではなく、それによるマチルダの闇でした。

なので、物語はパルナの救済ではなく、マチルダの討伐により解決を図るものとして誘導されます。

チルダは既に魔物と化しており、主人公たちがウッドパルナに辿り着いたときには既に彼女を救済する方法はありません。この悲劇を本当に根本から解決したいのであれば、パルナを救出することから始めるべきでしょう。

しかし、この物語はそれを許しません。

そのように悲劇の連鎖を根本から遡ってしまっては、きりがないというのが理由でしょう。あるいは、土地が救われるという結果のみを重視する神の残酷さという理由もあるのかもしれません。

悲劇の救済は別の悲劇を生み出します。

事実、主人公たちの介入がなければ、マチルダの魂は安寧を得ていたのかもしれない。

ハンクも苦渋の決断をする必要などなかったのかもしれない。

状況がほぼ手遅れであるからこそ、その変化には代償が伴います。それもまた、このゲームのストーリーに暗い影を落としていると言えるでしょう。

また、過去を改変し救うということは、その所業が人々に伝わらないということでもあります。

街の人々からすれば、主人公たちの介入がなければ滅びを迎えていたということなど、知る由もないのですから。

現代の人々は、主人公たちの行いなど忘れ去っています。パルナは村を救った英雄であり、マチルダという少女がいたという歴史などは闇に葬られました。

そんな人間の都合の良さが垣間見えるのも、このゲームならではかもしれません。

長くなりましたが、こうしてみるとドラゴンクエストVIIはただ陰鬱な話を展開しているのではなく、時間改変というテーマに真面目に向き合った結果生じているとも、言えるのではないでしょうか。

 

悲劇の根本を探れば、確かに多くのものが救われる。

しかし、それは悲劇のために懸命に足掻く人たちの努力を不意にしているのではないか。

それは傲慢な神の所業ではないか。

ドラゴンクエストVIIの中ではそんな問いに踏み込むことはありませんでした。

その問いを再度発したのがドラゴンクエストXIです。

ドラゴンクエストXIの物語もまた陰鬱なものが多いです。

特にホムラの里を巡る物語は歴代シリーズの中でも有数の救いの無さと言って良いでしょう。

そんな世界をXIでは改変します。

ここまで語ってきたドラゴンクエストVIIとは異なり、XIにおける改変にそこまでの無常観はありません。

悲劇の根本からくつがえし、ハッピーエンドになる展開が目白押しです。

それを見て何を感じるか……それはまさにプレイヤーに委ねられた問いなのでしょう。

幸せに笑うヤヤクとハリマの親子に喜びを見出すか、あるいは想い人を待ち続けるロミアの姿に正しさを見出すか。

ドラゴンクエストVIIと比較してみると、面白いものが見えるかもしれません。