自由と公共性の醜い争いに思うこと〜表現の自由を巡る議論から〜
昨今、正義が衝突する事件が非常に多い。
特に頻繁に見られるのは、「自由」と「公共性」の衝突だろう。
表現の不自由展が炎上し、それにまつわる議論が各所で発生したのは記憶に新しいし、先日は献血ポスターの事件に端を発し少年漫画誌やその作家が騒動に巻き込まれた。
私は基本的に自由側の人間である。
理由は簡単で、人間の行いに自信がないからである。
なので、折りに触れそちらの側に立った発言を細々としてきたが、インターネット上で発生している議論を見ると、どうやら互いの陣営の前提が共有されていないがために、永遠に平行線をたどっているように見える。
このままでは、互いが互いを罵り合うだけの戦争状態になってしまうだろう。あるいは、既にそうなっているのかもしれない。
個人は集団の暴力には勝てないので、対立が加熱すればするほど、人は身を守るために陣営に属さざるを得なくなる。
しかし、陣営ありきの議論は虚しいものだ。
陣営にはいろんな人物がいるので、それぞれに属する愚かな人間を叩きあっていれば議論ができている気になってしまう。
それぞれの思想の問題点を整備し、研ぎ澄ます中で対話を行っていくことが理想なのだが、現状ではそれは不可能に近いと言えるだろう。
そこで、少しでも相互理解の橋渡しになればと思い、双方の主張を「正義」という言葉を用いて、私なりの解釈ではあるが紐解いてみようと思う。
結論から言えば、この対立は「正義の拡大を求める層」と「正義の縮小を求める層」の対立である。
両者は無論、対立する概念ではあるものの、どちらか一方が無条件に支持されるものではないと考える。「正義」の範囲は、現実とのバランスにより決定されるべきものであろう。
なので、両者はただ潰し合うのではなく、健全な対話によるバランス制御が行われることが、必要なことである。
このことは、表現の問題だけではなく、日々起きている様々なレイヤーでの対立でも適用されるものであると考えている。
この文章が、世界で起きている「潰し合い」が少しでも「健全な綱引き」になるよう、願っている。
この世界において、我々はそれぞれ個人として存在している。
この個人は、物理的制約や経済的な制約など、様々な条件により行動範囲を限定されている。このような限定のことを束縛条件という。
しかし、物理的にも経済的にも、原理的には行動可能なのに自発的に行わない行動が存在する。例えば、多くの人はそれが可能であるにも関わらず、道行く人を殴りつけたりはしない。
すなわち、個人的には行動可能か否かという層を超越して行動を制約するもう一つの束縛条件が存在していることになる。
個人を束縛する条件のことを、便宜的に「道徳」と呼ぶことにする。
道徳は、個人によってその範囲が異なる。このことが、共同体の維持をより困難なものとしている。
それぞれ異なる道徳を持っているとしても、最低限の部分は共有しなければ共同体を定義することはできない。ある個人の集合に属する人間が最小限合意した道徳の部分集合こそを法と呼ぶことにする。
言い換えれば、共同体とは「法」という最低限の道徳の共有を受け入れた個人の集合体ということになる。
すなわち、大多数の個体にとっては、「道徳」には「法」に属さない範囲が多く含まれる。
これを便宜的に「正義」と呼ぶことにしよう。正義とは、法の束縛に関係なく発揮される、個人の行動規範である。
この正義は場合によっては集団に属するほとんどの人が共有していることがある。
しかし、判定が曖昧であったり、規制するメリットが薄いなどの理由で、法には至っていないこともある。
このように、多数にとって正義であるもののことを「常識」と呼ぶ。
たとえ、その常識が自身の道徳に含まれなかったとしても、この常識を遵守することが推奨される。それは、共同体に属する大多数の人間を不快に回さないための措置だ。常識に違反したとして罰を受けることはないが、多くのデメリットを被るであろう。
そして、この「多数」が個人の主観に過ぎないということが最大の問題である。
例えば、10代という年代に共有されている正義であったからといって、20代に共有されている正義であるとは限らない。また、集団の中には少なからず例外がいるということも忘れてはならない。
我々は日本という大きな共同体の中に暮らしている。もっと言えば、人類という巨大な共同体の一員である。しかし、それと同時にもっと多数の細かな共同体に属している。それは「年齢」「性別」「学歴」など、様々な条件により、人類という共同体を小共同体に切り分ける。
それらの間に垣根はないという理想は素晴らしいことだ。しかし、現実的にはこの小共同体によって正義は異なっている。その小共同体の正義を受け入れられない例外たちが息を潜めている。
あるいは、同じ正義を共有する集団が共同体と呼ばれることもある。例えば、宗教や思想などは、同じ正義を共有する集団として、初めて共同体として定義される。
そこで、複数の共同体の間で正義が違うという現象が生じる。
これに遭遇したとき、人には二つの選択肢が生じる。
一つは、相手に自身と同じ正義を強制することだ。これは、自身の共同体にある正義を、他の共同体にも当てはめること。すなわち、正義の拡大である。
もう一つは、その正義の違いを受け入れることだ。これは、自身が抱えていた正義を捨てることを意味する。これは、正義の縮小である。
一般に正義にそぐわない行動をすることを人は悪と感じる。正義の拡大は、悪を減らす上では最も良い手段である。
ゾーニングという言葉も、実質的には法の範囲を超えて正義の範囲を拡大する行為に等しい。
正義を拡大していくと、集団の秩序は大きくなり、公共性は増す。これは法に頼らずとも広く常識が支配しているということであり、逆に言えば常に人々の正義に常識の監視が行き届くということでもある。
この方向性は、異端の基準が厳格であるため、異端審問を行いやすく、安全性が高い。公共の安全を理由に正義を拡大するのは、極めて予防的措置であるということができる。
しかし、正義の拡大には際限がない。正義に誤謬が発生するたびに、正義はより強固な正義を整備する。なぜなら、唯一の基準であるがために、穴があった時の行き場がないからだ。
過去に、唯一の正義を目指した思想がいくつも存在したが、それが身内の粛清や統一戦争を招き、衰退の一途をたどったことは、忘れてはならない。
一方で、自身の価値観を強制的に上書きされるとき、人は支配を感じる。正義の縮小は、人を支配から開放へと向かわせる。これが行き過ぎると、過度の棲み分けや無秩序が発生する。
このとき、共有されるのは法に代表されるような最小限の正義しかない。なんなら、自由を謳う人間はその法という範囲すらも最小限に留めることを望む。その範囲で、人々は自身の裁量で自由に動けるということであり、そこには当然多数の正義の衝突が発生する。
これは、衝突が発生することは避けられないとする考え方であり、衝突により発生する被害についてはやむを得ない犠牲とする考え方である。すなわち、絶望的に予防には向かない。
すなわち、正義の縮小は犠牲者に寄り添うということを原理的に考えていないのである。それ以上に、正義の誤謬を恐れ、いくつもの正義を残していく消極的な態度なのである。
この点に、昨今起きているすれ違いの根本がある。
両者の目的が異なっていることを互いに理解しない限り、それぞれがそれぞれの理想に照らし合わせて互いを糾弾し続けるだけであろう。
しかし、本当にこれらは互いを認めず争っていればよいのだろうか。
秩序は秩序を際限なく求め、無秩序は無秩序を際限なく求める。
行き過ぎた秩序は崩壊を招き、行き過ぎた無秩序は犠牲を招く。
いずれか一方の立場を盲信するというわけにはいかないのだ。
そこで、行われるべきは、適切な正義のバランスを見極めることである。
秩序と無秩序の健全な綱引きが行われることこそが、共同体を維持するために必要なことなのだ。
そのために、「公共性」と「自由」は常に適切な議論が行われる必要があるのだ。
以上のことから私が結論するのは、表現は自由であるが、それらは常に公共性の観点からチェックを受け、議論の対象となるべしということである。この議論が、社会を維持するための正義の範囲を時代に合わせて変化させていくのだ。
なので、個々の表現に対する批判は十分に正当であると私は考える。
しかし一方で、その批判をあらゆる対象に適用した結果訪れる、拡大された正義の姿に対する想像力が足りていない発言は多いと感じる。
表現の規制に反対する層が危惧するのは、どの範囲の正義を拡大しようとしているのかという、その正義の境界線の問題である。なので、批判をする層は、その境界線を具体的に提示し、その是非について議論をする必要がある。
一方で、表現の規制に賛成する層が危惧するのは、正義を縮小、あるいは現状維持した結果もたらされる正義の衝突と、その犠牲である。自由を求める層はこの犠牲を軽視する。そのことが、相手の神経を逆なでしている。
なので、表現を守るのであれば、その犠牲について真剣に向き合うことが必要である。本当にその表現が犠牲に直結しているのかという丁寧な検証を始めとし、犠牲を回避するために行うべきキャンペーンや、生じる犠牲に対するケアを検討するのが、建設的な議論のあり方ではないだろうか。
そのような議論がなされるべきなのに、一向にその気配が感じられない点は危惧すべき事態である。
議論を行う上で重要なのは、正義は相手に認めてもらわない限り、正義にはなりえないということだ。
例えば、女性という集団の中で正義のアップデートが行われたとする。しかし、それを男性や他のマイノリティが正義として受け入れるかは別問題だ。一定の正当性が認められれば、他の共同体でも正義の更新が行われるだろう。事実、正義の範囲は刻々と変わっている。
あるいは、その正義に説得力がないと感じたのであれば、当然それは受け入れられない。説得力が不十分であれば、相手はそれを「お気持ち」に過ぎないと解釈する。つまり、「お気持ち」と呼ばれるとき、それは相手の正義をまだ正義だとは認めていないということを意味している。
自身の正義を無条件に相手に適用することは簡単なことではない。
しかし、自身の正義の全てを呑ませるのではなく、部分的に受け入れてもらうのであれば、コストはぐっと少なくなる。
そのためには、自身の正義を構造化し、把握することが重要だ。どの範囲は譲歩可能で、どの範囲は譲歩不可能なのかを理解することで、正義の妥協点探しは可能となる。
難しいことを言っているのではない。正義に基づく議論をするのであれば、自らの掲げる正義の境界線をきちんと把握せよという話だ。
このような正義の線引きを対話により探るあり方こそが、民主主義の目指した形ではないだろうか。
互いが、互いの主張を相対化し、健全な正義の綱引きが行われることを願っている。