ともきんぐだむ

主にゲームやアニメなどの話題について、その時、考えたことを書きます。

ポリコレ抜きでラスアス2を語る

 

昨今、色んな方面で話題のThe Last of Us Part II。

率直に結論から申し上げれば、私のこの作品への評価は「底の浅い作品」である。

しかし、なにぶん描写が散漫で飛躍が多いために、もしかしたら、私の読み取れていない「深み」があるのかもしれない。

そう信じて、いくつものレビューを読み漁ったが、残念ながら「この深みがわからないやつはカス・エアプ・ゲハ」といった煽りは多数目にするものの、その「深み」とやらが何なのかを解説してくれる記事にはついぞ出会えなかった。せいぜいが「復讐とは、争いとは、かくも醜く残酷なものなのか」という、ありふれたテーマ程度である。

多くの批判者は、単に好きなキャラが殺された、アビーが生理的に嫌い、などの理由で批判しているわけではなく、それらを犠牲にしたうえで語られたこの物語の「浅み」に憤っているのだと思っている。少なくとも、私はそうだ。

そんなわけで、この作品の「浅み」を語っていこうと思う。

(前々から思うが、批判の批判をしたいなら、せめて批判内容ぐらいはきちんと把握してほしい)

 

さて、この作品を語るうえで、特に頻繁に用いられるのは「ポリコレ」というキーワードである。

巻き込まれたくないので深入りはしないが、同性愛者が当たり前のように登場する世界観や、宗教や人種、思想への過度な配慮が鼻につくという意見はよく耳にする。

しかし、この言葉は作品単体の評価を超え、イデオロギーの問題にまで登ってしまい、メディア全般としての議論ならまだしも、個別の作品の評価として登場させるには、いささかノイズが多すぎる話題でもある。

とはいえ、一般に、この「ポリコレ」批判はポリコレそのものを批判しているのではなく、その結果生じた浅薄な人物描写や練りこみ不足なストーリーが批判されているということは、強調しておきたい。

なので、このレビューでは、そういった尺度を一切排除したうえで、本編の出来について語っていく。

それは、ディーナというキャラクターを、登場させるだけで意味のあるレズビアンでもユダヤ教徒でもない、一人のヒロインとして評価していこうという残酷な試みでもある。

また、開発者インタビューもいくつかは目を通しているが、作品外で語られた目的は、作品単体とは関係がないので、あまり考慮しない方向でいく。

 

 ジョエルの選択

本作の大きなテーマのひとつは「終わりなき復讐劇」である。その発端は、Part Iでジョエルが最後に行った一連の行動だった。

The Last of Us Part Iは「間違った世界を選ぶ物語」である。

感染者があふれかえり、モラルの崩壊した無情な世界。その世界の過酷な現実を嫌というほど見せつけられたジョエルであるが、それでも世界の救済を無視して、エリーの命を選び取った。

その選択は客観的には明らかな過ちである。

10000人の命と引き換えに、たった1人の命を救うレバーを引く、究極のトロッコ問題である。

その選択の異常性はジョエル自体も承知している。

ワクチンの作成にはエリーの命が必要という真実を知った時もジョエルには葛藤があったし、無抵抗の医者の命をプレイヤー自らの意思で奪わせた。さらに、エリーの救出後には決死の説得を試みるマーリーンの命をも奪った。

その選択の重みを承知した上で、全ての常識と良心を切り捨てて、修羅の道を生きることを決意した。

いかなる犠牲を覚悟してでも、残酷な世界に身を置こうとも、エリーと歩む道を選んだ。そんな不器用な男の物語がThe Last of Us Part Iであった。

 

それに対して「やっぱりお前の選んだ世界は間違っていました、やーい」と突きつけるのはあまりに蛇足であろう。

ジョエルは世界を敵に回してでも、無抵抗の医者や正義に戦うマーリーンを殺してでも、エリーと生きることを選んだ。

その医者に家族がいたから、という程度でその決断が揺らぐようなものではない。

医者の家族に恨まれています、と言われても「でしょうね」という話だ。

正当防衛の性格が強かった序盤の殺人に対して、ファイアフライに一人挑むジョエルの殺戮は、正当化できるものではないのは今更過ぎる話である。

他者からすれば、単なる殺人に過ぎないのはその通りだが、かといって、Part Iの物語を単なる殺人に矮小化するのであれば、続編としてはスケールダウンしていると言わざるを得ない。

そもそもが、倫理観が崩壊し、殺人が常態化している世界観である。

その中で、ジョエルの「殺人」を特別扱いする理由はどこにもない。この世界のどこにでもある殺し合いの物語である。あと、「モブの死」をテーマにする割には、今作で死ぬモブ達への配慮がなさすぎる。

すなわち、「復讐」というThe Last of Usの世界ではありふれているテーマに対しジョエルの特殊性は何一つ活かされていないのだ。

 

ジョエルの選択は間違っていた。であるからこそ、断罪とは常に背中合わせである。

「ラスアスの続編」である以上、「ジョエルの断罪」がテーマとなるのは、むしろ、当然といってもよい。その意味では、ジョエルの死は続編としては大いにあり得ることだろう。

しかし、ジョエルはきちんと「断罪」されただろうか?

ジョエルの罪は、単なる殺人ではない。免疫を持ったエリーを隠し、技術を持った医者を殺し、世界を救済する可能性を奪ったことが、最大の罪である。

しかし、肝心の断罪者であるアビーに、単なる「父親の仇」を超えた、ジョエルという人間を断罪しなければならない理由は存在しなかった。

これならば、世界の救済を願う狂信者にでも殺されたほうがましである。

そもそも、ジョエル自身は殺される理由もわからないまま死んだ。

銃を突きつけながら、ジョエルの選択により救われなかった命の重さを問うたのであれば、続編として賛否分かれるテーマではあるが、まだ評価できただろう。最初ではなく最後にアビーがジョエルを殺していれば評価は変わっていたかもしれない。

後にエリーがジョエルの罪をどう受け止めるかという話をするが、少なくともジョエル本人は一切関わることなく死ぬことになるのである。これは、ジョエルというキャラクターを大切にしているとは言えないだろう。

いずれにせよ、ジョエルの犠牲は前作の物語を一切踏まえていない、「舞台装置としての犠牲」の域を出なかったといっていいのではないか。

作者が描きたいテーマのための踏み台として、前作の主人公を退場させたのである。

そして、その描きたかったテーマが「安易な復讐劇」でしかないのが、また「浅み」なのだ。

 自我の見えないキャラクターたち

ジョエルを犠牲にしてまで描かれた復讐劇が、希薄であることが、この作品に反感をもたらした理由の一つである。

無情で救いがないゆえに、「深み」があると思わなければ納得できないかもしれないが、それでも希薄である。

 

そもそも、アビーの側の復讐の動機が希薄である。

何度も言うが、この世界で他殺されることは日常茶飯事である。なんなら、感染者に殺されることだって珍しくない。実際、マニーは無名の狙撃者にあっさり殺されているし弔われもしない。

その中、ジョエルをことさら特別視する理由はないのだ。

生存すら危うい世界で、あくまで一個人への復讐のために何年も準備するのは、狂気の沙汰である。

しかし、アビーからその狂気が感じられない。

アビーが復讐のためならどんな残酷な行為も厭わない、狂気に取りつかれた復讐鬼であるならば、まだわかる。

だが、アビー編で描かれるアビーの姿は「ただのいい人」である。

ジョエルへの憎悪も強調されることはなく、やらなければいけない仕事の一つでしかないような小さな扱いであるし、数年越しの悲願であるジョエルへの復讐を達成しても、それを父親に報告する描写ひとつない。ジョエルを絶対に殺して、エリーを殺さない理由があやふやなのだ。「友人の敵より、父の敵の方が憎い」という話ならテーマがぶれる。

計画的殺人の割にはジョエル殺しの後始末をするでもなく、エリーに限らずともジャクソンから来るであろう復讐者を警戒するでもなく、のうのうと仲間割れにご執心で、とにかく緊張感がない。

挙句、自身を助けてくれたセラファイトの姉妹を助けるために、モブの大量殺戮を行いながら命を懸けて奔走する。アビーの死生観がわからない。

 

ただし、アビー編の物語自体は悪くない完成度であったと思う。

セラファイトから追放されながらも、その宗教観を捨てきれないヤーラ・レブ姉妹との交流は、本作では珍しく練りこまれたシナリオだった。道中の様々な出来事から、お互いの価値観を知り、信頼関係を築いていくさまは、前作のジョエルとエリーにも通じる良質な構成だったといえるだろう。

知り合ったばかりで相容れない思想も多い「守る必要のない仲間」レブを守るためにWLFを裏切り、かつての同胞に銃を向けるアビーの姿は、前作のジョエルにも通じる「間違った選択」の瞬間であった。組織の論理の犠牲者であったオーウェンとの関係も、よいスパイスとなる。なるはずだった。

これらのテーマをほぼ成り行き任せにしてしまったのは、実に惜しい点だ。アイザックへの引き金もアビーに引いてほしかったのが正直なところだが、とはいえ、ああいった形も悪くないと思う。

煮詰めれば、感動と動揺をもたらす物語になるはずだった。

しかし、一連の物語は、エリーの登場によって全て投げっぱなしに終わってしまった。

肝心のエリーやトミーへの復讐シーンでは、レブは都合のよい駒に過ぎない。アビーの価値観に疑問を挟まずただ言いなりになるレブは、それまでのアビー編を踏まえても、ただの人形装置である。

 

いずれにせよ、復讐劇の主役として見てしまうと、アビーというキャラクターは激情に駆られるようには見えず、一貫性がない。そして、復讐劇としてみると、WLFとの不和や、オーウェン・メルとの不仲がどうしてもノイズとして混入してくる。思い入れとして描かれる部分よりも、居づらさを強調される部分の方が多いからだ。まだレブが殺されたほうがムカつかない?という気分になる。

「それでも復讐したいのが人情」「単なる復讐として殺されたからこそ、怒りが増幅される」などの理屈付けは可能だが、そうだとしたら、そこは大事な物語の肝なのでちゃんと葛藤を描いてほしい。

初めはアビーとレブの物語として企画が進んでいたところに、むりやりエリーとジョエルをねじ込んだのではないか? と邪推したくなる。

 

そして、エリーの方は輪をかけてテーマがふわふわしている。

エリーの道中もまた、緊張感がない。最愛のジョエルを殺されたのだから、ショックで気が触れていてもよさそうなものだが、シアトルまでの道中はディーナとイチャイチャお喋りしていて、実に楽しそうだ。廃ビルでギターを見つけたときに、ジョエルとの思い出に涙するだけでなく、さっさとディーナとの想い出の歌を歌い始めたときは目を疑った。

そして、トミーとの合流を第一目標において冷静に行動していたかと思えば、アビーの居場所が分かった途端、何よりアビーへの復讐を優先して殺しにかかるのだが、そこまでに鬼気迫る描写がないために、唐突感が否めない。このあたりの感情の振れ幅のご都合感は、トミーにも共通している。

エリーの旅を語るうえで外せないのが、ディーナというキャラクターだが、このディーナというキャラクターが実にふわふわしている。

ディーナが軽薄な女性であること自体はあまり問題がない。そもそもが、キスした翌日にベッドインしただけの唐突な関係である。2年後にエリーを捨てて去っていったのも、無理はない。

しかし、それが死を覚悟し、安住の地を捨てた復讐の旅への同行となると、話が変わってくる。マリアが説得したように、エリーの選択はあまりにも間違っているのだが、それを止めるでもなくホイホイついてくるのは、「恋は盲目☆(ゝω・)vキャピ」では済まないと思う。

そんな命を賭した同行でありながら、ディーナ側に緊張感がないために、その会話に付き合わされるエリーの側の緊張感も薄く見えてしまった面はあるように思う。

なお、ディーナとの関係はシンプルではなく、ディーナのお腹には、元カレとの子供の命が宿っている。しかし、そのあたりはほとんど触れられることはなく、置いていく都合の良い言い訳になっていた。

そして、元カレであるところのジェシーが旅に同行する理由も希薄であるし、ディーナの妊娠に対する態度も希薄である。このゲームは「どうやって移動したのお前」が多すぎていちいち突っ込まないが、初日に追いかけてこないでわざわざ過酷な旅を超えて合流する理由がやはり希薄である。

オーウェンら同様、ジェシーもエリーとの絆の描写が薄く、不和の種としての性質が強かったために、その死を悼もうにも共感しにくい。どいつもこいつも、性欲以外に自我がない。

2年後の復讐でジェシーのことはほぼ触れられていないし、その程度の犠牲だったのかもしれない。「復讐が連鎖を呼び不幸を増やす」というテーマを内包しているように見えて、その実増えた不幸には特に興味がないらしい。

そんな気まぐれにやる気を出し始めるエリーの復讐心であるが、その復讐心が揺らぐシーンがある。それが、妊婦であるメルを殺害したシーンだ。このゲームは西洋らしく妊婦信仰がすごいのだが、それにしてもこの倫理のない世界観で妊婦を殺しただけでメンタルブレイクするのは、いささか弱い。エリーにとっての「子供」の考え方を示す描写がないので、妊婦に対する感情がわからず、ディーナとメルは対比構造に達していない。そのために、「妊婦を殺した」ということの重みが伝わってこないのだ。

このあたりの理屈は、アビーがディーナの妊娠を知って、エリーとディーナを見逃したことにも共通するが、とにかく説明が少なすぎる。「素直に祝福できない命だけど、それでも大切な命」と言いたいのだろうか。潜入ミッションいたずらに増やすより、このあたりをきっちり演出してほしい。道中で死ぬモブにも子供がいたかもしれないのだが。

ともかく、ドラマとしてみると、この作品は行動動機がふわふわしているキャラクターが多く、今ひとつ説得性に欠ける。

とはいえ、世の中には、キャラクター描写をおざなりにしてでも描きたいテーマを執拗に描くことで名作と呼ばれるにいたった作品は、多数存在する。では、そのテーマはどうだろう。

究極的にはジョエルとエリーの物語である……が

この物語は、復讐劇の裏のテーマとして、ジョエルとエリーの関係性がテーマでもある。むしろ、こちらがメインテーマといっていいかもしれない。「復讐」がテーマとしてノイズすぎる。

エリーは、前作でジョエルがした仕打ちを許したくても許せないという、複雑な心境に遭った。

過去の回想で、エリーがジョエルの所業を知って激昂するシーンがあるのだが、そもそも、前作でエリーはジョエルの「あからさまな嘘」を見抜いていたのではなかったのか。そのうえで、ジョエルと共にあるために、ジョエルと共犯になることを受け入れて、嘘を承認したのではなかったのか。

前作のラストは、嘘で始まるおぼろげな関係を受け入れ、共犯の誓いを幼いエリーが受け止めていくことに、深みと余韻があったと勝手に解釈していたが、どうやらそれは勘違いで、エリーはジョエルのしたことを何も理解していなかったらしい。単に嘘ついたおこ、というだけの解像度だったか。

 

そこは深読みした過去の自分を大いに恥じて受け入れるとして、このゲームの目的はすっかり反抗期を迎えてしまったエリーが、ジョエルの亡霊と向き合うことである。

エリーは、ジョエルが死ぬ前日の会話で、「許せない、けど、許したい」という想いを吐露している。今更、被害者ヅラしているのが納得できないが、とにかく、エリーはジョエルと向き合うための方法を模索していた。

その機会を奪ったのが、アビーである。エリーは、失った目的を埋めるかのように、道中彼女とワイワイしながらも、復讐のためにアビーを探した。

それが失敗に終わって2年が経ってもなお、エリーはヤギ小屋でのフラッシュバックのように、ジョエルの死というトラウマから逃れることはできなかった。そのために、エリーは再度復讐の旅を決意するのである。それは、ジョエルに奪われた自分の死に場所を探していたのかもしれない。

しかし、エリーはアビーを殺さなかった。それは、ジョエルの罪から始まる一連の殺し合いの結果を受け入れるということであった。すなわち、盲目的なジョエルの味方をするのではなく、ジョエルと決別するということである。

エリーにそう決心させた動機は、正直曖昧である。弱って痩せ細ったアビーにジョエルと自分が導いた世界の儚さを見たのか、復讐の旅の結果失ったものに思いを馳せたのか、語られることはない。このあたりは、あえて語っていないのかもしれないが、単純に語ってないことが多すぎて説明不足のひとつである。

最終的に、指も家族も失い、エリーはすべてを失った。一方で、ジョエルの亡霊からの支配を逃れ、真の意味で独り立ちすることとなり、一人旅立っていった。

 

この作品はものすごくアンチ父性みたいなところがあって、それは父性がテーマであった前作の痛烈なアンチテーゼでもある。最後、ジョエルとの絆の象徴であるギターを置いて旅立つことからも、そういったテーマがうかがえる。

しかし、それでもこれをこの作品でやる必要はなかったと思う。というか、テーマを語るには描写が足りていない。何より、復讐という表テーマとの連関がない。むしろ、復讐というテーマが大きすぎて、最後のエリーの決断が状況に引っ張られているだけにも見える。

作中を通じてエリーがジョエルとの決着を葛藤するわけではないし、アビーはそのアンチテーゼの役割にはなっていない。結局、ジョエル側に発言権がないので、テーマとしては自己満足的で片手落ちになっている。物語のスケールに対して、エリーが戦っているものがあまりに小さいのである。ジョエルを殺した結果、エリーは思い込みで親離れをするしかなかった。

あれだけの犠牲を払っていて、エリーは反抗期を終えて自己満足して独り立ちしましたというお話では、さすがにエリーに背負わせる罪が大きすぎると思うが、そのことを本人が気にしてる風でもないのが気になってしまう。目的があろうと一般人を殺すとどうなるか、この作品が教えてくれるんだけどね。

 

この作品には複数のテーマが平行して流れているが、そのどれもが独立して連携が薄い。結果として、それぞれのテーマが互いに圧迫しあって、消化不良になっている。

ジョエルの罪と向き合い、エリーが独り立ちするというテーマは、悪くないと思う。しかし、それを語ることを主にわずかな回想シーンに投げてしまい、この大きなテーマを扱うべき分量には達していない。そのために、最終的に導いた結論に説得力を感じないのだ。

何より、わけもわからずに殺されて、しかも娘同然に思っていたエリーにも勝手に過去にされて終わるというのは、ジョエルの扱いがさすがに惨めである。

キャラに望まれない展開が訪れたから怒るという短絡的な話ではなく、重要なキャラに粗末な役割を押し付けて雑に始末するのは、納得もできまいという話である。

 

痛ましい現実を「体感」するに至るか

最後に、少しゲームシステムの話をする。

物語自体が陳腐であっても、それを「体感」できるということにゲームというメディアの価値がある。

ゲームという媒体だからこそ、本来ではありえない「他人になる」ということが可能となり、唯一無二のプレイ体験として記憶に残る。「体験する映画」というNAUGHTY DOGの十八番ともいえるキャッチフレーズからも、それが伺える。

では、本作はそのような演出面では長けていたのだろうか?

それらも個別に見れば好意的解釈ができなくもないが、他の作品と比べると今一つに感じる部分が多かった。

 

何より、肝心な殺人のシーンがムービーに任せきりであることが惜しい。満を持した復讐であるのだから、その重みはプレイヤー自身の手に委ねてほしかった。

そもそも「連打」という操作は、切羽詰まった感じがあり、瀬戸際の鍔迫り合いには向いているが、衝動的な殺人には向いていない。

結果として、アリスや最後のアビーもそうであるが、QTEがあるシーンすら、どうしても意図的な殺人よりも正当防衛という気持ちの方が勝ってしまった。プレイヤーがキャラクターになりきって体感するというよりは、ただ状況に流されているだけという感覚の方が強かった。

特に顕著なのがアビー編のラストを飾るエリー戦で、プレイヤーとしてはエリーを攻撃する積極的な動機が薄いのである。なぜなら、エリーを殺したのもジェシーを殺したのも、プレイヤーではなくアビーが勝手にやったことだから。これは、アビー側の怒りの演出が希薄なことにも起因している。

せめて、ここでアビーかエリーのどちらを操作するか選べ、という分岐選択肢があったらおもしろかったのかもしれない。

 

ともあれ、この作品はキャラクターたちが積極的に殺人や犯罪に手を染めるが、プレイヤーにその共犯意識を持たせる演出が不足している。

「衝動的な行動」をプレイヤーに体感させるという点では、例えばDETROIT: BECOME HUMANなど優れた作品がすでに多数あり、それらに比べて本作のイベント演出は見劣りしていたように思う。

 

前作は乗り物を手に入れよう、誰それと合流しようなど、個々のステージにしっかりした目的があった。それが難しいステルスアクションを乗り越えようという目的につながっていた。

しかし、今作では「シアトルに入るためのゲートに入るための石油を手に入れるため」に広大なマップを探索する必要に駆られたりする。他にも、苦労して敵地を突破したと思ったら、また新しい敵地が連続的に始まったり、徒労感を感じるステージ構成が多かった。

ベースのシステムが面白いことは否定しないが、いささか、アクションパートの作業ゲー感が大きかったと思う。

感じさせるのか、勝手に感じるのか

長く語ってきたが、総じて言えることは、この作品はあまりに空白が多く想像の余地がありすぎるということである。

プレイヤーに想像の余地を残すこと自体は悪いことではない。しかし、この作品は、プレイヤーの勝手な補完に多くを委ねすぎている。好意的に解釈すれば何とでもなるが、解釈できる材料がそもそも少ないので、悪意的な解釈も簡単である。

だから、ジョエルを殺すための説得力に欠けるアビーにヘイトが向くし、特徴があっても役割が希薄なキャラクターたちに反感を持たれる。

「問いを投げかける」といえば聞こえはよいが、出題者も最低限の見解を述べるのは必要なことではないか。

 

キャラクターたちの一貫性のなさや内心の描写の少なさを、それがリアルだからと言う人もいるかもしれない。

しかし、これはフィクションであり、物語である。伝えたいメッセージを「君なら……知ってるよね?」とぶん投げるのは、あまりに不親切であるし、それをするには、このテーマはあまりにも複雑だ。

その説得性の薄さが、この作品に対する不評の根源であり、賛否が分かれる要因ではないか。納得できない人に、納得させるための材料が不足しているからだ。

 

いずれにせよ、この作品を批判する人間は、エアプばかりではないということは、気にとどめてほしいと思う。