ともきんぐだむ

主にゲームやアニメなどの話題について、その時、考えたことを書きます。

偏りまくった「イエスタデイをうたって」感想 ~当て馬エンドとはかくあれかし~

こんにちは。
だいたい感想と言えば、あらすじがあってそれに対して作品のテーマはこうでという総括としての感想がメインになると思います。
でも、概論めいたことを語ろうとするとどうにも筆が進まないというか、自分の読解速度では到底追いつかないという事実にようやく気付いたので、とにかく自分が一番強く感じた部分という点を語っていくという、偏りまくった感想を書くスタイルでやっていこうかなと思います。
こういうコンセプトで書く感想は、人に作品を勧めるための試金石としては全く役に立たないわけですが、まあ、そこはもっとちゃんとした人がたくさんいるということで。


そんなわけで、先日アニメ「イエスタデイをうたって」を視聴しました。(アニメそのものは2020年に放送されたものです)

singyesterday.com


簡単に説明すると、このアニメは冬目景氏の原作を動画工房がアニメにした作品で、やりたいことが見えずに就活をサボってフリーターをしている魚住・陸生と、陸生と友達以上恋人未満の関係を続けている大学の同級生・森ノ目榀子、陸生に一目惚れした高校中退少女野中晴、榀子と家族同然の付き合いをする幼馴染・早川浪の四人を中心とした青春群像劇です。

視聴中は森ノ目榀子の突き抜けた地雷ぶりに舞い上がっておりました。

 

 

(断っておくと、陸生も十分やばいです) 

 

そんな彼女のやばさを語るのもありなのですが、この記事ではラストに見事逆転を果たした野中晴を中心に感想を述べたいと思います。

 

この作品はズバリ当て馬エンドに属する作品です。
当て馬エンドとは、主人公(この場合は陸生)の視界の中心にいたわけではない存在が最後に勝利をもぎ取っていくエンディングのことを言います。

当て馬エンドの作品自体は数多く存在するのですが、これまでなかなか納得できる作品には出会えませんでした。
というのも、当て馬というのは、くっつく説得力が弱いから当て馬と呼ぶのです。
運命力においてメインヒーロー・ヒロインに遠く及ばないからこそ当て馬なのです。

 

そもそも、三角関係ものやハーレムものの恋愛作品は、最後にどのように"一人"を選び取るのかという説得力に作品の全てがかかっています。

現実の恋なんて気の迷いと言うリアリティは確かにありますが(奇しくもこの作品のテーマの一つでもあります)それでも恋を描く物語である以上は、恋を描き切るべきなのです。

それを最後だけ無理矢理捻じ曲げてくっつけられても、一読者としては「作者、血迷ったかな?」というモヤモヤが先に来てしまいます。

 

ところが、この作品は一味違う。
野中晴は確かに当て馬でしたし、当て馬としてゴールインしている、まさに理想の当て馬エンドなのです。

 

そもそも、一話で意味ありげに登場した時の野中晴は当て馬ではありませんでした。

公園で出会ったカラスを連れたミステリアスな少女ハルちゃんという属性は、メインヒロインにふさわしい風格であったと言えましょう。

恋愛というのは追わせてなんぼなので、陸生側に積極的に追いかける理由ができる「不思議な少女」というベールは、彼女を実に魅力的に引き立てていました。

 

しかし、そんな晴の歯車が狂い始めます。

その原因は森ノ目榀子の存在でした。

 

彼女の存在は二重に晴を追い詰めます。

ひとつは、榀子が陸生の想い人であったこと。

これによって晴は少しでも早く距離を詰める必要に駆られました。

 

もうひとつは、榀子が晴の素性を知っていたことです。

そのために、晴は「ミステリアスは晴ちゃん」というベールを脱ぎ去る羽目になりました。

 

その2つの原因によって晴は自らの年齢やら素性やら、全てを明かさなければならなかったのです。

同時にそれは当て馬街道をまっしぐらに進む道でもありました。

自らの手の内を全てさらしたことによって、彼女にはもう切れる手札がなくなってしまったのですから。

本人もそれを分かっているからこそ、追い詰められるまでは設定を明かさなかったわけですね。

 

攻め手がないのを晴も自覚しているので、ここからひたすら晴は二番手として「待つ」ことに徹します。

自分から行っても気を引くことができないので、榀子との決着がつくまで積極的にはアプローチしないという選択です。

それまでは二番手という陸生からすれば都合のいいポジションにいる状態に甘んじます。

その関係性にどこか心地よさを感じてしまっているのが当て馬少女の可愛らしさですね。

 

 

榀子が周囲の想像をはるかに上回るやばい女だったために、やたらと時間はかかりましたが陸生と榀子は付き合い始めます。

晴にとっては最悪だった「今」という関係をずるずるキープしたがる榀子は、考えうる限り最悪の存在だったことでしょう。

焦って陸生に積極的に会いに行こうとすると、かえって邪険にされてしまう始末です。

そんな榀子のスタンスに引きずられたために、晴は二人の関係の進展を知ることなく、クリスマスに二人でいる現場に遭遇するという最悪の終わりを迎えます。

「ずるいよ」という言葉が全てを象徴していますね。

 

半年が経過し、陸生と榀子は別れます。

お互いにとって、欲しいと思っていたものがただの幻想であることがわかり、その結果として解散したという形です。

そうして陸生は晴の前に姿を現し、「やっぱりお前のことも可愛いと思ってしまったから」最低な告白をします。

ええ、本当に最低の告白です。

晴はどう考えても都合のいい身勝手な扱いに嫌味を思いっきりぶつけながらも、それでも笑顔で告白を受け入れるのです。

 

晴が作中でも述べている通り、恋とは錯覚です。

負けヒロインには多くのタイプがいますが、その多くは主人公が求めている幻想とかみ合っていないから負けるんです。

主人公の走る道の先にいるからこそ、メインヒロインはメインヒロインたる位置にいますし、主人公とは違う幻想を主人公に見出しているからこそ、負けヒロインは負けヒロインなのです。

 

それがゆえに、急激に主人公が記憶喪失になったとしか思えない振る舞いをする当て馬エンドに否定的だったのですが、この作品はそんな当て馬エンドのあり方に丁寧な回答をくれています。

 

主人公が錯覚しているのなら、それを冷ましてやればいいんですね。

 

陸生は榀子という幻想を追いかけていました。

それは、どこか学生気分を続けたいという陸生自身の幻想とも噛み合っていました。

榀子という存在もまた、そんな幻想に浸かったままいさせてくれる悪魔のような存在でした。

そんな幻想が最終話で解体されました。

目が覚めて、手近にある当たり前の幸せを、不格好でもいいからつかみ取る。

そうして選ばれたのが、当て馬少女こと野中晴だったのです。

 

それはある意味では、陸生という存在が主人公という役目を終え、ただの人へと帰っていくという意味でもあります。

魚住陸生という主人公が、夢を走り終え、ひとつの現実へと帰っていく。

そんな終着点として野中晴はいました。

 

主人公という幻想を解体した先、その象徴としての当て馬エンドというのは、当て馬エンドの形として、とても美しいものでした。

自分の中の「当て馬エンド」に対する考え方が大きく変わったなと感じる作品です。

 

偏りまくった着地点ですが、こんな感想もある、ということで。