ともきんぐだむ

主にゲームやアニメなどの話題について、その時、考えたことを書きます。

【ネタバレあり感想】カリギュラ2の描いた生きづらさについて

第1作からなんと5年と1日の歳月を経て6月24日にFuryuより発売されたCaligula2。
筆者は第1作を発売日に購入し、一度目のアップデートが入る前にクリアした。そこそこのファンである。

この記事では、そんなCaligula2のストーリー面について紐解いていこうと思う。
以降の文章では大いにネタバレが飛び交うので、クリアした人と覚悟のある人だけご覧いただきたい。

 

 

 


このゲームのキャラクターにはドラマ性がない。
こう書くとけなしているように見えるだろうが、その実は真逆である。

本作に出てくる登場人物は皆、何かしらの悩みを抱えているが、それらは決して劇的なものではないのだ。
この作品は、前作から一貫してアンチドラマを志向している。

現実世界での後悔を異世界でやり直すという設定は実に魅力的だ。
ドラマに慣れ親しんだ我々は、登場人物たちがさぞかし大層な悲劇や後悔を抱えているのだろうとよだれを垂らして待ち構える。

しかし、この作品はあえて真逆を行く。
彼らの心の闇は驚くほどにこじんまりとしている。
現実世界を見渡したら当たり前にいるような、なんならもっと悲惨な人もいるような当たり前の人たちなのだ。

最近、インターネットでは悲劇マウントの取り合いをよく見かける。(代表的なものは食費のマウント合戦だろうか)
カリギュラに登場するキャラクターたちは、そんなマウント合戦では下位にランク付けされるだろう。
例えば、#QPがそのまま悩みを綴ったら「その年齢で文句を言うな」などの罵声が飛び交う光景が目に浮かぶ。

しかし、他人と比べてどうかなど関係ない。
自分にとってはそれが世界の命運にも匹敵するほど大事なことだし、心が押しつぶされてしまいそうな切実なことなのだ。
カタルシスエフェクトの針が飛び出たようなデザインは、そんな心の叫びを表現したものである。

カリギュラは、そんな当たり前の悲劇に寄り添う作品だ。
ありふれた悩みを抱えた登場人物が、自分の出した答えに迷いながら、それでもあがく姿を見て、我々は勇気づけられるのだ。

そんなカリギュラは2になってどのような進化を遂げたのか。
一番の違いは、主要キャラクターたちを取り巻く境遇だろう。

前作に比べると、2の帰宅部メンバーは若干特殊な境遇のキャラクターが多い。
能登吟はセクシャリティに関する悩みを抱えていて、宮迫切子は元国民的アイドルだ。
月宮劉都は天才児だし、二代目佐竹こと鶴巻鐘太も、ニュースを一時期騒がせた時の人である。
本当にありふれた人物が中心だった1と比べると、この点は明確な違いと言えるだろう。
しかし、そんな特別な彼らの悩みですら、私たちと多くは違わないというのがカリギュラ2のメッセージのひとつでもある。

ある意味では、偶像を抱かれやすい立場の人たちである。
ここでいう偶像とは、必ずしも崇拝や尊敬を集めるものばかりではない。
そもそも、人は他人と接するとき、等身大の本人を見つめることなどほとんどなく、他者に対する願望を投影した偶像を見ていると言えるだろう。
SNS社会による情報の拡散は、ときに本人の姿を飛び越え肥大した偶像として進化を遂げる。
炎上した個人や有名になった個人が、断片的な情報だけであることないこと言われている光景を、一日に一度は目にするだろう。
これもある種、他者に対して「こうあってほしい」という願望が生み出した偶像なのだ。

能登吟は確かにセクシャリティに関する問題を抱えていた。
近年では大々的に特集されることも増え、悲劇的な境遇の人の代名詞として偶像化されており、そのように認識している人も多いだろう。
しかし、彼を縛り付けていたのは「空気を読みすぎる」という彼の特質によるものだというのが、この作品の回答である。
キィがそうしたように、彼を取り巻く問題について勉強するのはもちろん大切なことだし、それによって改善することもある。
それでも、彼のパーソナリティに寄り添いながら、新しい道を模索していくことが重要なのだと、この作品は説く。
そう考えると、遠い世界のことのように思える彼の話も、ひとつの身近な悩みのように思えてくるのだ。

おせっかいという気質と、周囲からの期待に板挟みになっていた宮迫切子。
自分の意思で何かを決めるという責任に耐え切れなくなった鶴巻鐘太。
将来を決めるというその選択自体に恐怖した月宮劉都。
出来のいい妹と比べられ、ただ存在を承認してほしかった駒村二胡

いずれも、悩みを紐解いていくと、彼らの境遇の特殊性が招いたものではなく、彼ら個人の問題が根っこにある。
そんな個人の弱さと周囲に抱かれた偶像のはざまに落ちて、道を見失ってしまったことが、彼らの生きづらさの正体ともいえる。
特別に見える彼らも普通の人間なのだという物語は多数あるが、特別に見える悩みも私たちと大して変わらないのだという着地点は、この作品らしいと言えるだろう。


そんな彼らが対峙することになるのが、リグレットとオブリガードの楽師である。
オブリガードの楽師は前作同様、何も特別な肩書のないものが多い。
マキナはどこにでもいる死を恐怖した少年だったし、ムーくんはうだつの上がらないエンジニア。
パンドラの推しに身を滅ぼした限界学生と言う肩書きは最近珍しい話でもないし、#QPは平凡なアラサー婚活女子だ。
まあ彼らには類稀なるという言葉すら生ぬるい音楽の才能があるわけだが、それはそれ、これはこれ。

何らかの偶像化に苦しめられた帰宅部と比べると、いかなる期待も偶像化もかけられなかったような人たちである。
その最たる例がリグレットこと人見小夜子だろう。

小夜子は何の変哲もない引きこもりの少女だった。
ただ、コミュニケーションが苦手で、学校に通えなくなってネット上の数人規模のコミュニティに逃避していた、一人の少女だった。

それが運命の悪戯か、ブラフマンを名乗る父の暴走によって女神となった。
誰にも期待を寄せられなかった少女は、大衆の期待を一身に請け負う偶像となったのだ。

ブラフマンの策略によって情報がシャットアウトされていたとはいえ、等身大の小夜子を見てくれる者などいなかった。
リドゥに住まう全員が、救済の女神と言う偶像を小夜子に押し付け、彼女の声を聴こうとする者はいなかった。
そんな小夜子の声を、母親以降はじめて聞いたのが帰宅部だった。

しかし、現実はやはり甘くない。
多かれ少なかれ無償の愛を向けてくれる親とは異なり、帰宅部の面々はリドゥに囚われた被害者であり、人間だ。
強大な存在感を放ち一度は自分に救済の手を差し伸べてくれたリグレットという偶像と、目の前にいる根暗でコミュ障の少女とのギャップに耐えられなかった。

崩壊した偶像は怒りへと変わる。
糾弾される小夜子だが、彼女には言い訳をすることしかできない。
その偶像を勝手に抱いたのはそちら側だろうと。

誰とも話すことなく偶像として祭り上げられた少女は、ここに来て初めて自身がまとっていた膨張した偶像の姿を知るのだった。
膨らみ続ける偶像を解体するには、彼女自身の言葉を届けるほかない。

だから、彼女は駄々っ子のように縋りつく人々を否定する。
「私に頼るな、自分の力でなんとかしろ」と。
結局のところ、自身にまとわりつく偶像を解体するには、対話をするほかない。
それは、彼女が人生で怠ってきたことそのものだった。

小夜子自身が声を上げ、自身の偶像を否定すること。
それが小夜子にとって必要なことだったのだ。

こうして、偶像の連鎖が生み出した一つの神話は終わりを告げた。
しかし、それは偶像そのものを否定するわけではない。

人はなぜ、偶像を作り出してしまうのか。
それは、自身が弱いからである。
弱い自分を奮い立たせるために、自身の抱える生きづらさを仮託するのである。

それは、努力は必ず報われるという神話かもしれない。
それは、悪人が必ず誅されるという寓話かもしれない。
あるいは、こいつのせいで世の中が悪くなったと短絡する、終わりなき憎悪かもしれない。

人は、他者に夢を見ることで自己を定義し続け、前に進むしかないのだ。
かつて、その役割を担っていたのは神であり、宗教であった。
その概念が希薄となった現代の日本では、その夢は人に帰属させられる。

もちろん、押し付けられた側は溜まったものではない。
そんな偶像の押し付けあいこそが、自分たちを苦しめ、生きづらくさせる一種の楔でもある。

それを救済するのがキィだ。
バーチャドールである彼女は、バーチャルであるからこそ、人々の偶像願望を一手に引き受けられるという。
それが偶像として生まれ、偶像のために生み出された彼女の見せる覚悟だった。
そんな自らのあり方にたどり着くのが、彼女の成長物語の終着点であった。

もちろん、その道は平坦ではない。
近年、インターネット上にバーチャルな人格を生み出し偶像として君臨するブームが起きているが、
それですら多種多様に満ちた偶像の押し付けに耐え切れずに崩壊してしまうケースは少なくない。
ダメージを低減できるとは言え、結局奥にいるのは生身の人間なのだ。

そして、キィもまた心を知ってしまった。
小鳩を初めとする帰宅部とのぶつかり合いの中で、葛藤し悩むことを知ってしまったのだ。
しかし、この衝突がなければ、彼女が偶像の意味を理解することはなかったので、これは偶像を抱く側と抱かれる側に憑りつく終わりなき業なのかもしれない。

自覚なき女神であったははことμは、全ての偶像を受け止めた結果暴走した。
偶像であることを求められたリグレットは、その重みに耐え切れずに自壊した。
2人を目の当たりにしたキィがどのような立ち位置にたどり着くのかはわからない。

そんな答えのない問題に対し、それでもなお希望を持たせてくれるキィという存在に、ゲームのプレイヤーである自分は勇気づけられたのだと思う。
それもまた一つの偶像であり、そんな偶像を見せてくれるのもまた、創作物の力なのだろう。