ともきんぐだむ

主にゲームやアニメなどの話題について、その時、考えたことを書きます。

推しがいないという思考法

こんにちは。ともき(@tmk_423)です。

突然ですが、生まれてこの方、推しキャラも推しカプもおりません。
となるとまあ、箱推しという言葉が当てはまるわけですが、その言葉にもしっくり来ていません。
一般的には「アイドルもの」とされる作品を愛好している関係上、そのあたりで周囲とギャップを感じたりもします。

しかし、推しがいないとはいえ、キャラクターの子たちは好きです。
思い入れの深いキャラクターだっています。
ただ、「推しは誰?」と言われた瞬間わからなくなります。
でも、その子が人気投票で上位に来てほしいわけでもないし、グッズがほしいわけでもありません。

一方で、制作陣に"推し"はいます。
この監督だったら、このプロデューサーだったら、そんな基準で作品を手に取ることはよくあります。
ただ、「キャラクターを推せ」と言われた瞬間わからなくなるのです。

というわけで、今回はそんな自分が、作品を見るときにどういう視点で見ているのか、です。
どれが正しいというわけでもなく、「こういう見方もあるのだな〜」という観点でお楽しみください。

キャラクターではなくエピソードで見る

まずはこれ。
自分は、キャラクターがエピソードを作るのではなく、エピソードがキャラクターを作るのだと思っています。

つまり、「このキャラを活かすためにこういう話を作る」という見方をせずに、「こういう話を作るために、このキャラにこういうことを言わせる」みたいな見方をしています。
そのため、解釈違いという現象が起きにくいです。
「発言が妥当かどうか」という視点はあるものの、「このキャラクター像に合致するか」という視点が弱いからです。
そこで違和感がある場合、「解釈違い」ではなく、「シナリオの粗さ」という形で見えてきます。
「このキャラは、今回いいセリフを与えられなかったね」という感じです。

恐らく、「このキャラの"ここ"が好き」とはならないため、"ここ"と外れて解釈違いになるということが起こらないのですね。
どうにも、物語上のロールとキャラのパーソナルを別物と捉えているフシがあります。

推しエピソード>推しキャラ

やはり、あくまで作品は物語が主導しているという考え方が強いです。
描きたいテーマや、描きたいエピソードが有り、そのためにキャラクターが配置されていると思っています。

つまり、「推しエピソード」がまずあって、その次に「推しキャラクター」が来ます。
キャラクターは、推しエピソードに登場するピースの一つだと思っているわけですね。
なので、そのエピソードにおけるキャラ同士の関係や、その発展を重視しています。

そうなると、妄想のモチベーションも変わってきて「このエピソードの延長にある話が見たい」とは思いますが「このキャラにこんなシチュエーションを当てはめてみたい」とはならないです。
なので、学パロみたいな異なる世界線を前提とした二次創作は、読み方がわからないのですね。

キャラクターに願望を抱かない

結構違うなと思っているのがこれ。
僕はキャラクターに「こうして欲しい」と思うことがありません。
極論、説得力さえあれば幸せだろうが不幸だろうが関係ないです。

なぜなら、エピソードが上位に来るからです。
エピソード、あるいはストーリーラインに関しては、どちらに転ぶかわからないから面白いというフシがあるので、あまり願望を抱かないのですよね。
それが面白い、説得力を感じるシナリオであれば、キャラの扱いに不満を抱くことはありません。

同様の理由で、キャラクターの扱いが平等ではなかったとしても、あまり気にならないんですよね。
むしろ、「不遇」というネタを積極的に使っていくことすらあります。
これも、「推し」という思考をしていないからこそ、できることなのかもしれません。




いつもより短めの、とりとめのない文章になってしまいました。
この見方は、推しがいる人からすれば、ある意味冷酷ですね。
「キャラクター」は「キャラクター」に過ぎず、そこに人格を認めていないと言っているわけですから。

「推し」がいないという人、全てがこういう思考とは限りませんが、それでも、ものの見方の一つとしてこんなものもあるということで。
違いを感じていただけたら、面白いなと思います。

たまにはこんな自己分析みたいな記事もアリなんじゃないでしょうか?

それでは!