ともきんぐだむ

主にゲームやアニメなどの話題について、その時、考えたことを書きます。

「君の名は。」を気持ち悪いという声に思うこと

こんにちは。ともき(@tmk_423)です。

先日、日曜日に地上波で公開された「君の名は。」。
周知の通り、2016年に公開され、アニメーション映画としては歴代4位になる250億円という大ヒットを記録した映画だ。

これに対して、主に女性を中心として、この作品を「気持ち悪い」とする意見がインターネット上で散見された。
それらのツイートをここで晒すことは敢えてしないが、検索すれば沢山見つかるはずだ。
彼女らの批判としては、主に

・瀧が三葉の身体になりかわった時に、胸を揉む
・先輩がスカートを切られるシーンとそれに対する反応
・口噛み酒を巡る一連のシーン

あたりのシーンが「気持ち悪い」というものに集中していると思われる。
これらに対する反応・反論はあらかた出尽くしているような気もするが、極力中立になってこの問題を考えてみたい。

どちらか一方の集団を貶すようなことは絶対にしないので、読んでいただけると幸いである。
なお、文中に「男性」「女性」などの表現が登場するが、適宜「一部の」といった言葉を補っていただきたい。

君の名は。」は思春期の少年の性衝動を描いた作品

新海誠作品を語る上で、"童貞感"という言葉がよく登場する。
これは彼の描く恋愛描写が、「女性慣れしていない男性」の行動や願望を体現しているとされるからである。
(誤解しないでほしいが、新海監督の恋愛経験については何も言っていない。ただ、そういった質感を描くのが非常に上手いということに過ぎない)

こうした感性は、特に思春期において顕著に現れる。
思春期とは、性に対する芽生えであり、異性に関する興味が大きく高まる多感な時期である。
その現れ方は男女で異なるが(この点については、後に触れる)男性の場合は、それは「女体への関心」として現れる。極端な言い方をすれば、女体信仰といっても良い。

女体に興味があるのに、肝心の女体に触れることは適わない。そういった鬱憤と、蓄積された好奇心が、女体の神格化をもたらす。
君の名は。の物語の根底に、そういった願望が宿っていることは確かだろう。
入れ替わりという超常現象を通じて、少年は少女に触れる。この特異な馴れ初めこそが、この物語の肝だ。

これらの願望がいわゆる"童貞感"につながっている。
思春期の少年とは、当然ながら女性を女性として扱ったことがない。モテない男そのものである。
極論、思春期が気持ち悪いのは当たり前なのだ。
そういった思春期特有の衝動を描くという際に、これらの「気持ち悪さ」を描かないのは、むしろ欺瞞とも言える。

なぜ「君の名は。」という作品が支持されるのかという背景に、この「思春期の衝動」の描写がある。
気持ち悪いまでの異性への関心と欲望、またどこかにある美麗な世界への羨望。
狭い世界で生きてきた子供が、世界を押し広げる際の期待感を、入れ替わりという舞台装置や、美麗な背景技術を駆使して描き出している。
そして、その新しい世界には異性という神秘も含まれる。
未熟な少年の見る夢の世界を、大人が気持ち悪いと感じるのは、むしろ当然の感性ではないか。

日本のアニメ作品には、こういった「思春期の衝動」や「女体信仰」を感じさせる作品が少なくない。(だからといって、そればかりだという結論は誤りであるので注意)
その代表的な例が新世紀エヴァンゲリオンだろう。
スタジオジブリ作品もその一つだ。
ジブリのヒロインたちは、肌の露出が少ない。むしろ、ダボついた服を着ておりボディラインが見えないことも多い。しかし、それが逆に内部にある女体の神秘性を際立たせている。
途方もなく無垢であるがゆえに、神聖である。

長々と説明してきたが、ようは思春期の少年は気持ち悪いのである。
異性に関する関心が出てきたのに、それをコントロールする術を知らないのだから当然だ。
人間である以上、多くの場合は異性に関心を持つ。その衝動を学び、コントロールすることが青春時代に課せられた使命だ。逆にいえば、誰もがはじめは未熟なのだから気持ち悪い。
その暴走しそうなまでの好奇心の芽生えを、逃げることなく描くからこそ、思春期を描いた作品は際立つ。

そして、この思春期の衝動の現れ方は男女で異なっているように思う。
だからこそ、女性からすればより一層、奇異で気色悪いものに映るのだろう。
男子の場合、異性への関心は女体の神格化として現れる。では、女性の場合はどうなのか?

私が女性の感性を持たないため推論でしか無いのだが、それは「グロテスクなまでの愛への羨望」として現れるのではないか。
少女向けとしてゴールデンタイムに放送されていた作品として「カードキャプターさくら」や「少女革命ウテナ」などが挙げられる。
いずれも、近親相姦や同性愛など、タブーとされる恋愛描写を積極的に取り入れている作品である。ウテナに至っては明確に兄妹間での肉体関係が示唆されている。
(同性愛は近年はタブー扱いされないが)
近年は自主規制の影響もあり、そこまで尖ったタブー表現は減っているが、それに限らずとも、少女漫画の恋愛には「教師と生徒」などの軽微なタブーも多い。
これらは愛の神格化と呼べると思う。
また、「男体の神格化」も存在する。萩尾望都などに象徴されるボーイズラブ作品は、男性からすれば過剰なまでに無垢で綺麗な少年の肉体が、神格化されて描かれている。
男性が(ゲイを取り扱った作品ではない)BL作品を気持ち悪いと捉える背景も、こういった部分にあるのではないか。

いずれにせよ、思春期が抱きがちな性への衝動、特に異性の肉体の神格化というのは、気持ち悪さを内包しているのである。

衝動を飼いならせない現実の大人たち

ここで、批判をしている女性側の立場に立って考えてみたい。
彼女らの言い分は様々あるが、その一つに「これらの描写は性犯罪を正当化している」とするものがある。

昨今の性描写に関する議論が盛んであるが、それらの根底にあるのはいずれも「性犯罪に対する不安」であるように見える。
いつ男性に襲われるかわからない恐怖、あるいは実際に襲われた恐怖体験が、彼女らの主張の根幹にある。
だからこそ、犯罪行為につながる行動を否定的に描かないというだけで、彼女らからすれば十分に危険な表現として捉えられるのだ。
(本筋ではないのであまり語らないが、これらは防犯や公共の安全という観点で語られるべきであり、フェミニズムという文脈からは分けるべきと思う)

先に述べた、思春期の男性の「性への衝動」は、容易に痴漢などの性犯罪に繋がるものだ。この衝動が加害的なものであるかどうかに男女の違いがあるし、そこにすれ違いの根源がある。
そういった危機感や警鐘が彼女らを大々的な批判キャンペーンに駆り立てていることは、想像に難くない。

しかし、こういった衝動は恋愛感情を抱いた青少年、あるいはそれを健全に昇華できなかった中高年男性には必ず存在しているものであり、悲しいことにそれらを抹消することはできない。
その一方で、我々は人間である以上、これらの本能的な衝動を理性によりコントロールすることができるはずだ。
この衝動を飼いならし、コントロールするということに関して、男性側の意識が足りていないのは明らかだろう。
それは彼女らの主張に対する心無いリプライからも伺い知れる。

つまりは、これらの衝動が女性を危険に至らしめるものでありながら、十分な対処が施されず野放しになっていることへの怒りだ。
たとえ、大半の男性がそれをコントロールできていたとしても、野放しにした結果、犯罪に走る人間が現れるならば、それは社会の責任である。
この衝動を健全に飼いならす方法が、現在学術的に確立されているのかは、寡聞にして知らない。しかし、こういった犯罪への危機感を汲み取って衝動をコントロールする方法は、男性が主体となって探っていくべきである。

芸術とは、気持ち悪さを感じ取るもの

さて、「君の名は。」を始めとする作品は、思春期の青少年の衝動を描いたものであり、その衝動は容易に性犯罪に接続されるものであることを述べてきた。
では、この作品の評価はいかに下すべきなのか?

結論から言えば、この作品は極めて優れた作品である。
なぜならば、「気持ち悪い」という感情を喚起させたことが、成功なのだ。

芸術の役割は様々あるが、その中の一つに「日常生活では取りこぼされてしまうような感情を拾い集め、私たちに届けること」がある。
その代表例がピカソゲルニカであろう。
普通の人が目を背け、見落としてしまうような光景を切り出し、訴えたことにこの絵画は価値がある。
「善とも悪とも言わず、ただ切り出すこと」が重要なのだ。見落としてきた光景を受け止め、何を考えるかは我々受け手の役目だ。

君の名は。」も同様である。
この作品には、思春期の少年が当たり前に抱くような衝動や変身願望を、ファンタジー体験を通じて描き出している作品だ。
ここに描かれている光景は、現実の中に埋もれたワンシーンの誇張表現であり、再現だ。
そこに実感が伴っていることを受け入れなければならない。実感がこもっているということは、現実の中にこの感覚が眠っているということだ。

だからこそ、彼女らがこの作品を「気持ち悪い」と評したのは、正しい。
この作品の根底にある性への衝動を適切に読み取った結果、その衝動に「気持ち悪い」という感情を抱いたのだ。
しかし、その怒りは作品に向けられるべきではない。
作品はただ、社会に眠る一つの側面を暴いたに過ぎないのだから。怒りを向けるべきは、そのような気持ち悪さを無言で肯定し、放置してきた社会であろう。

そして、男性はこの作品が「気持ち悪い」と評されている現実を真摯に受け止めるべきである。
多くの男性が思春期に抱いたであろう衝動を、呼び起こしてくれるこの作品であるが、その衝動は「気持ち悪い」ものなのだ。
この気持ち悪さは、確実に男性の内面に存在しているからこそ、その付き合い方とそれぞれが向き合っていかなければならない。

作品に罪はない。
受け取った側が、作品から受け取った感情とどのように向き合うか。その答えを作品は教えてくれない。なぜなら、いかなる表現でも受け取り方は千差万別だからである。
その感情は、確実に現実から、あるいはあなたが生きてきた人生から想起されたものである。
作品鑑賞を通じて、社会や自身と向き合うきっかけとすることが、芸術の役割であり、人類の歴史を一歩前に進める原動力となるのではないか。

現実は綺麗なものばかりではない。時として目を背けたくなってしまう現実に光を当てることこそが多様性だ。
そうして生まれる表現たちには、賛否があるだろう。しかし、目を背けたくなる以上、そこには一抹の真実が眠っている。
昨今、一面的で画一的な"多様性"が叫ばれるようになって久しいが、こういった綺麗ではない部分を照らし出す作品が存在することこそ、真の多様性ではないか。
「同じ感覚の人がいてくれて安心した」では、話は前に進まない。断絶は深まる一方である。双方、自分とは異なる感覚の人のことをただ阻害するのではなく、知ろうとする姿勢こそが望まれているのだと思う。

最後になるが、一冊の本を紹介させていただきたい。
この小説は、毒親家庭に育ち、常に他者への苛立ちを募らせている女性の物語だ。
自分のことを棚に上げ、母からの受け売りで他人を蔑み倒す彼女の言動を、恐らく「気持ち悪い」と感じることだろう。
その気持ち悪さの根源はどこにあるのか、そして彼女はどのような未来を掴むのか。
とかく正義が暴走しがちな現代社会において、この小説を読んで、一歩立ち止まってみるのも悪くないと思う。

『エレノア・オリファントは今日も元気です』

エレノア・オリファントは今日も元気です (ハーパーコリンズ・フィクション)

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