バッドエンド不要論
私はヌルゲーマーで、かなり雑多なジャンルのゲームをプレイしているが、最近はギャルゲーや乙女ゲーなどの恋愛ADVに少し力を入れている。
しかし、このような作品をいくつかプレイしていると、果たして恋愛ゲームにバッドエンドは必要なのか? という疑問が湧いてきた。
今回は、その疑問について自分の言葉で整理してみたいと思う。
恋愛ゲームにおける主人公とは、プレイヤーの分身だ。
自己投影派・主人公は主人公だよ派など様々なタイプがいるが、主人公の行動で運命が変わるという点が、小説や映画とは決定的に違う点であり、醍醐味であるといえる。
そんなプレイヤーの分身が、紆余曲折を乗り越え、意中の相手と添い遂げることがゲームの目的だ。
その最中、あなたならどうするか? を問うのが選択肢ひいてはルート分岐の役割といえるだろう。
でも、この選択肢に〇×をつける必要ある? というのが今回の本旨だ。
例えば、逆転裁判のような作品で選択肢に〇×があるのはわかる。
ストーリーの目的が事件の解決であり、主人公に求められる役割はそれを解き明かす探偵になることだからだ。
〇を選ぶことが、主人公の条件であるともいえる。
しかし、恋愛ゲームにおける〇×は好感度に対する〇×であり、つまりキャラクターの好みに対する〇×にすぎない。
プレイヤーは選択肢を通じてそのキャラの好みの男/女になることを強いられているのだ。
あえて自分らしく選択肢を選んでしまうと、バッドエンドに直行することがしばしばある……というか多い。
恋愛という本来正解のないゲームにおいて、あなたの行動は間違いなんですよと一方的にジャッジされてしまうのだ。
これはかえって没入感を妨げていないか?
例えば、挫折してへこたれている攻略対象がいたとしよう。
こいつを抱きしめてよしよしするか、厳しく叱咤激励するかは、まさにプレイヤーの性格次第だ。
あまりにムカつくなら蹴り飛ばすのもありだろう。
でも、トゥルーエンドにつながるのは、その中の一つだけだ。
他の行動をとるような人間は×なのだ。
主人公をプレイヤーの分身というのなら、それぞれの人格に合わせたトゥルーエンドがあっていい。
つまり、グッドエンド・バッドエンドという二択ではなく、よしよしなかよしエンドと、叱咤激励調教エンドの二種類があるのが理想なのではないか。
最近は、バッドエンドにも味のある要素を残す作品も増えてきており、一概には言えない。
しかし、とあるRPGシリーズなどが採用している「ロウルート」「カオスルート」のように、どんな運命でたどろうが、その〇×を判断するところまでプレイヤーの裁量に任せてほしいと思うのだ。
いずれにせよ、そういったプレイヤーのパーソナリティに合わせた恋愛を実現してこそ、真の疑似恋愛体験ゲームといえると感じるのである。
こういうことを言うと、「制作を殺す気か」「いや無理な人格は無理だろ」「ないならお前が作れ」という声が上がるだろう。僕もそう思う。
むろん、今の確立されたスタイルにも利点はたくさんある。
ただ、選択肢でプレイヤーの行動を「ジャッジする」ということの意味は、今一度考えてみてもいいのではないか。